2013年5月30日木曜日

(15) ピートのフード

家内は昨年、ピートのフードを動物性蛋白質主体のものに切替えた。ところがその年の秋、換毛期を迎えると、今まで経験したことのない恐ろしい程の抜け毛に見舞われ、自慢のオッターテイルはネズミの尻尾のように細くなった。

しかし、ピートの体毛は、幸い何事もなく新しい毛に生え変わり、毛質も柔らかくなって、オッターテイルも元通り復活した。そして、腹部に至っては、以前より遥かに多くの体毛に覆われるようになった。どうやらフードの切替と共に、体質も変化したようである。

以前のフードを大雑把に調べると、トウモロコシ,大豆などの穀物に、動物性蛋白質・脂質他を加え、犬好みの風味に仕立てたものであった。

これとて厳選されたプレミアムフードだったが、原材料は穀物の配合率が高く、これは、よくよく考えると牛や豚といった草食動物の家畜用飼料ではないだろうか。


(草食動物と対峙するピート)

ピートの体毛変化を見ると、狼を起源とする肉食系の犬には、穀物主体の消化し難いフードは合わないようである。特に、犬のアレルギーや肝機能障害の発症も、穀物やその添加物と何らかの関係があるのではないかと疑っている。

昨年切替えたフードは、良質の動物性蛋白質に果物等を加えたもので、所謂グレインフリー(穀物不使用)と呼ばれているものである。梱包は、アルミ蒸着の耐湿用梱包材で厳重にシールドされており、温度や外気の影響を極力少なくしている。

ただ、問題が無いわけではない。良質なフードは給餌量が少なめに設定されており、一日の摂取量は200~300gで済む。これは、ラブラドールの最大胃袋容量8リットルからして甚だ少なく、その心中を察するに余りある。

(このような仕草は肉食系だけ?)

さて、このようなフードは一体どのような味がするのであろうか。ここは自分で試食してみることにした。その味は、カツオの振り掛けのようで、魚肉も入ってなかなか美味である。犬には失礼だが、酒のつまみにもよい。また、犬用であっても良質のバランス栄養食であり、人間の非常食としても充分に耐え得る。人犬兼用で大量に買い、東南海地震に備えるのもよいだろう。


 (柿も好物: 肉食系でも果物は食べる?)

今回のピート用フードは、法律で食の安全が守られた外国産である。(品名は、諸々の事情から伏せざるを得ない事をご理解願います)
安全な国産品と言われて久しいが、こと犬用フードに関しては、日本で法律が整備されていない以上、どのようなものを主成分としているのか非常に心配である。

ペット用フードの安全を、他国の法律に依存しなければならない現状は、誠に情けない国情と言えよう。

なお、国は平成20年6月18日、ペットフード安全法なるものを公布したが、これは添加物, 農薬, 汚染物質等の含有量基準を示したもので、栄養成分の基準を立法化したものではなさそうである。

日本でのペットフード安全法成立は、米国での中国産ペットフードの問題がその背景にある。法律の経緯,趣旨,内容は下記に示されている。

http://www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/petfood/files/gaiyo.pdf

主食のペットフードだけでなく、おやつと称する類や玩具の成分も、その範疇として扱って欲しいものである。

2013年4月22日月曜日

(14)ピートとその食欲

 ピートが我が家へ来て早や9年目を迎え、今年で10歳を迎える。人間の年齢に換算すると、とうに私達を追い越してしまった。

ピートの行動は、数年前から落ち着きを見せ始め、今考えていることや、次にやりそうなことを容易に推察できるようになった。また、散歩後は、以前よりも長い休憩をとるようにもなった。
然しながら、全く衰えないのが食欲である。これは、ラブ全体に言えることらしく、ピートが特別に食欲旺盛な訳ではないらしい。
何しろラブの胃袋は、最大8ℓである。これは、人間の1.5~1.8ℓに比べ、異様にデカイ容積だと言える。

(ジャージー乳ヨーグルトのお裾分けを貰うピート)

ピートが1日に必要とするフードの量は、家内がフードに含まれるタンパク質の含有量に、年齢、体重、季節を加味し、計算によって決定している。
これで日々必要な栄養摂取量は、数値的には申し分ないだろう。しかしこれは、カロリーベースの算出法であり、8ℓの胃袋を満足させるには程遠い量なのではないだろうか。
ラブの食べ物に対する異常なまでの行動は、大袈裟に言えば、この量的な飢餓状態によって引起されるのかも知れない。

(食卓のイチゴを覗き込むピート。さて、見張りを怠るとどうなるか)

どうも生物の食に対する欲求行動は、人間を含め、栄養を量でカバーするように出来ているようだ。換言すれば、自然界にそんな効率のよい食物なんて存在しないのである。要するに、ペットフードという食の形態は、宇宙食と同じだと思われる。願わくば、栄養と量のバランスを考慮した良質なフードの出現に期待したい。


2011年3月26日土曜日

(13) 被災地動物関連情報

「東北地方太平洋沖地震で被災された方々に、心よりお見舞いを申し上げます。」
        

Dog ActuallyのTwitterに被災動物関連情報が掲載されています。
http://twitter.com/dogactually


Dog Actually: 被災した動物を助けるために~海を越えて広がる救援活動の輪
     
  
東日本大震災特設ページ(犬連れ避難・長期滞在受入の宿)
  
  
  

2011年2月9日水曜日

(12) 犬と日本の生活様式

ピートがやって来た時、我が家の生活様式は、和式と洋式のごちゃ混ぜ状態であった。住居は洋風だが、中身の生活様式は日本のそれである。例え部屋が床張りであっても、生活用品は和式の部屋と同じように低いところへ置いていた。その低い位置の用品は、全てピートの格好の遊び道具となった。

(パピー時代のピート: この後、我が家へやって来ることになる)

そして、ピートが遊び回る床は、光沢も無くなり傷も付いた。外飼いの日本犬のイメージのまま受け入れたものだから、それはもう大変な状況に陥った。覚悟はしていたが、これが室内飼いというものかと、つくづく思ったものである。だがピートは、外飼いでは見ることのできない気質や面白い行動を示してくれ、本当に犬を理解するなら、室内飼いに限るのではないかと思った次第である。

(カナダ産ヒッカーソーの無垢の床: 西洋人はこの上を革靴で歩くのだが)

西洋風の犬の飼い方をするには、生活様式も西洋風に替えねばならない。家具や生活道具は、椅子で生活する高さに揃えるのが望ましいし、更に土足様式の生活にするなら申し分ない体制と言える。
しかし、我が家の生活様式は、今もって和洋折衷のままである。ピートにして見れば、遊び道具が一杯あって、むしろその方が面白いのかも知れない。


日本の犬の飼い方は基本的に外飼いであり、洋犬は室内飼いであると思える。これが如何なる文化的理由に基づいているのかを、理路整然と解説した書物に出会ったことはないが、恐らく日本の床上生活様式と西洋の土足生活様式の違いから来ていると考えるのが普通であろう。だが、この生活様式の違いだけが、果たして室内・外という犬の飼い方にまで影響を及ぼしているのであろうか。
 
実際にピートと暮らして見ると、日本の外飼いの理由が、生活を家畜と共には出来ない、という特有の考え方にあると思えてくる。それは、日本人の根源的な宗教観に基づいていると考えるのだが・・・。
この件に関しては、ピートのリンク’ピートとパパの会話 その105 禅問答’にて、かなり乱暴な表現ではあるが、その観念的な考え方の考察を試みた。因みに猫は家畜と看做されていないので、日本家屋と言えども、土足での出入りが自由で、昔から室内飼いをされてきた。然るに猫の存在は、この観念的禅問答を補完する個体的実存と言えなくはない。
 
日本での室内飼いは、犬に対する家畜や畜生という観念が薄れてきて初めて、次第に許容されるようになってきたと思われる。つまりは日本の犬・畜生という考え方は、事物の本質を指し示しているのではなく、後から人間が付け加えた観念に過ぎないと考えられる。それが、取りも直さず犬の飼い方の違いとなって現れているのではないかと・・・。

2011年1月21日金曜日

(11) Working Dog

Working Dogとは、人間をサポートするために働く犬のことである。その形態は、各々の犬種が持つ様々な性質を利用したものだと言える。盲導犬を初めとする近代のWorking Dogも、元々は猟犬の流れを汲む一亜種の性質を利用したものだと私は考えている。


(これが本来のラブラドール・レトリーバー: Photo by LRC ,USA)



それらの猟犬は、嗅覚や視覚が鋭いセントやサイトのハウンド系、鳥猟を得意とするセッターやポインター系、獲物の回収を得意とするレトリーバーやウォータードッグ等、狩猟方法によって使い分けられてきた歴史をもつ。

(ヘリコプターで吊り上げられる軍用犬 :Photo by Wikipedia)




さて我がラブラドール、ピート君の歴史であるが、狩猟の変遷と絡めて考えると面白い。17世紀頃散弾銃が発明され、飛来する水鳥を容易に打ち落とすことが可能となったが、いちいちボートを出して獲物を回収していては手間が掛かる。そこで回収に秀でた犬の出番となる。つまり、散弾銃が発明されて以降、人間の手によって改良されてきたのがラブラドールという回収犬だと言えよう。これが、ラブラドールをガンドッグと呼ぶ所以であると考えている。

(水鳥を回収してきたラブラドール: 足取りがピートと同じなのに注目されたい)


一方、産業社会の発達や動物保護の観点から狩猟が衰退してきた今日、これら狩猟犬種の中で、人間社会のサポート犬として圧倒的なシェアーを誇っているのがラブラドールである。何故そうなのかは、ラブラドールという犬種と一緒に生活してみて初めて理解し得る。それは、人間に対して殆ど敵意を示さない性質を持っていること。つまりはフレンドリーの一言である。


(なんとも微笑ましいセラピー犬? これも Working Dogの一種: Photo by Pawatuck River LRC)


Working Dogの前書きが長くなったが、家庭犬となったピートにも、その回収犬としての性質を見ることができる。先ずは、人間の行いを黙って観察しているのである。そして、私が手に持っていた道具を置いておくと、暫くしてそれを私のところまで持ってくる。フリスビーとかの遊びの中での行動ではなく、人間のお手伝いという認識のようである。時として、運んでいるものを’持たせろ持たせろ’と盛んにアイコンタクトしてきて困ることもある。

(左は、ハンマーを持ってきて、これを使えと言っているピート)
(右は、バケツを持ってついてくるピート。お手伝いのつもりであろう)


このように、レトリーバーとして改良されてきた歴史を持つピートは、様々な場でその名残を見せてくれる。出来れば、受継いできた性質のまま過ごせるような環境で、共に生活をしてみたいものである。

最後に何ともキュートな、そして平和な雰囲気を醸し出しているWorking Dogを見てみよう。

2010年11月24日水曜日

(10) ラブラドールの起源

ピートと暮らしていると、日々様々な思いを巡らす事がある。例えば、犬に対する考え方や西洋文化についてのそれである。今回は、ラブラドールという犬種の起源について、色々と考えてみることにした。
(集合したレトリーバー達。カメラを向けると一斉にポーズをとり始めるから不思議)


前々回、狼からイエイヌへの分岐が、ミトコンドリアDNAのゲノム解析から1万5千年前であると解った。ミトコンドリアDNAは、母親から子に受継がれていくもので、従って、このDNAのアミノ酸の塩基配列を解析して行けば、自ずと系統樹の先端へ辿り着く。更に、ゆっくりとした突然変異を繰返す塩基置換速度をこれに当てはめれば、分岐年代が1万5千年前という結果が得られるという寸法である。

この測定法は、炭素14の年代測定を分子生物学上の数学的な分子時計に置き換えたと考えれば、何となく理解できるというもの。人類共通の祖先である20万年前のミトコンドリア・イブは、この方法で初めて辿り着けた理論的祖先の女性である。ま、難しいことは研究者に任せて、ラブラドールの話に戻るとしよう。

ラブラドールという犬種は、凡そ150~200年前に、ニューファンドランド犬とウォータードッグとを交配させ、セント・ジョンズ・レトリーバーという新しい犬種を作り出し、それをイギリスで改良したものであるとされている。セント・ジョンズ・レトリーバーとニューファンドランド犬は、学術上カナダ産と看做されているが、領土帰属論争の紆余曲折を経た結果であると聞く。

この両犬種の性格は穏やかで、子供にも優しく接しられたが、体重は54~77kgに達する大型犬であった。寒さに強く、ウォータードッグとしての水かきを有しているのも、共通の特徴である。レトリーブ能力の高さも相まって、まさに寒冷地の水辺で作業をさすのには打って付けの犬種であった。


(ニューファンドランド犬: ウォータードッグと交配させてセント・ジョンズ・レトリーバーが誕生する)

ニューファンドランド犬は、固体によっては心臓病や股関節形成不全が散見されるという。また、成長スピードが非常に早いという特徴を持つ。現代のラブラドールに股関節形成不全がみられるのも、この犬種の遺伝子を受継いでいるからであろう。この疾患は、成長スピードと遺伝子の相互関係ではないかと疑っているが、この分野における獣医学の研究成果を早く出して欲しいものである。尚、ニューファンドランド犬は、千年以上前からの人工的な交配種で、作業犬や海難救助犬として活躍していた。ウォータードッグについても、似たような経緯を歩んで来たものと思われる。
 
(セント・ジョンズ・レトリーバー: イギリスで改良される前のラブラドールの原種である)


セント・ジョンズ・レトリーバーは、写真で見る限り、ラブラドールの祖先として何となく見分けることが出来る。それもかなりの大型犬である。現代のラブラドールは、ヨーロッパ人によって、扱い易いようにやや小型化されたようである。ラブラドールの歴史によれば、セント・ジョンズ・レトリーバーは狩猟や漁労補助に高い使役能力を発揮していたが、それ以上の能力を獲得さすため、イギリスで改良された結果、ラブラドールという犬が誕生したのである、とされている。

ラブラドールという犬種は、ウォータードッグ×ニューファンドランド犬→セント・ジョンズ・レトリーバー→ラブラドールという人工的な交配系統を辿ってきた。このように、人間の都合のみで能力を高められた犬種は、しばしば遺伝的疾患を伴うようである。このような犬種の多くは、遺伝子レベルによる自然的進化の枠外に存在していると、私は思っている。
          
潜在的遺伝子疾患は、改良というスピード進化の過程で、並行して変化すべき分子レベルの何かが欠落したというか、突出した能力をサポートするDNAゲノムの変異数が不足したのかも知れない。塩基配列の置換速度が一様ではなく、部分的且つ人工的に変化したとの考え方である。故に、改良された特定犬種の遺伝子的疾患は、自然選択によって不利な変異は排除されるという進化論の大原則を、人間によって無視された結果であると考えている。

自然界で、アミノ酸の塩基配列の突然変異がゆっくりと進むのも、このような偏りを避けてのことだろう。ピートが我家へ来て以来、これが進化の中立性の意味ではなかろうかと、常々考えるようになったのである。

ピートは今のところ元気だが、ラブラドール共通の遺伝子を受継いでいることは否定できない。今や、遺伝子レベルでその犬種特有の疾患を見つけることは困難ではない。原因が特定できれば、遺伝子操作で発症を無くすことも可能と思われる。これは、獣医学ではなく、分子生物学の分野かも知れないが、今後の研究成果に期待したい。
(ニューファンドランド犬、セント・ジョンズ・レトリーバーの写真は、wikipediaより)

2010年11月11日木曜日

(9) リーダーの資質とは

犬は、リーダーをどのようにして選ぶのであろうか。
自然界の狼は、群れの中の闘争によってリーダーの地位を得る。人間社会に溶け込んだイエイヌは、闘争ではなく、民主的にリーダーを '選ぶ'という方法を取っている。これは、あくまで家族との相対関係における範囲で、自分の眼力によって選んでいるようである。

(リーダーに毛づくろいをしてもらうピート。そこには信頼関係がある)

ピートを見ていると、一日の内で自分に最も長く関わっている人間をリーダーとして見ているような気がする。我が家では、それが家内であるのだが、概ねどこの家庭でも、そのような傾向にあるのではないだろうか。
  
ピートは家族で居る時、常にリーダーの動きを注視している。私が何を言おうが、ピートの目線はリーダーの居る方向に向いている。しかし、私がフードを持つとこの限りではない。そこが、ラブという犬種の面白いところである。
  
食料との関係からピートの見方を推察すると、食料をフードボウルに入れて運んでくるのは家内である。しかも、殆ど毎日がそうである。その観点から見れば、リーダーの資質は、如何に食料を確保する能力に長けているかである。だとすれば、私の存在は、単に従属している関係に過ぎないと、ピートの目には映っているのだろう。だからピートは、その辺の事情も総合的に考慮した上で、家内をリーダーとして選ぶ判断を下したのだろう。
  
(リーダーに従って冬山を登攀する)

リーダーと同じような意味でボスという存在がある。この違いについて、東京大学農学部獣医動物行動学研究室の武内ゆかり先生が、Harry Gordon Selfridge の言葉を引用して見事に述べられているのを、尾形さんという方が紹介していた。それによると、
  
  ・ボスは不安を与え、リーダーは信頼を得る。   
  ・ボスはどうすればいいのかを知っているが、リーダーはどうすればいいのかを示す。   
  ・ボスは権力に頼り、リーダーは協力に頼る。   
  ・ボスは怒りを起こし、リーダーはやる気を起こさせる。
  
というものであった。
  
人間社会も、何やら似たような感じではないか。この言葉から、私達がピートの真のリーダーと成り得るには、まだまだ経験を積まなければならないと感じるのである。

2010年11月5日金曜日

(8) レトリーバーの気質とイエイヌの起源

ピートが我が家に来て以来、犬という動物への考え方が変わってしまった。従来持っていた 犬のイメージは、犬即ち番犬という通念であり、過去の飼い方もそれ様であった。ピートのフレンドリーな行動を見ていると、犬というよりファミリーとして人格化したくなる想いに駆られるが、それは日本古来の犬に対する常識から逸脱することになる。

(硫黄岳への途中、オーレン小屋のスタッフと・・。 誠にフレンドリーな犬である)
 
そもそも狼からイエイヌが分かれたのは、15000年前と言われている。このような短期間で狼の持つ特徴的な性質を消し去り、フレンドリーさという気質をレトリーバーに持たせ得たのは、理由はともかく、人類の並々ならぬ努力の結果であると賞賛すべきことなのかも知れない。

(ヘラ鹿を追う狼の群れ。 Wikipediaより) 

レトリーバーのフレンドリーさは、面白いことに気質として遺伝されて行く。私達がイエイヌに持っている気質の概念は、躾けによって身に付けるという、言わば後天的に作られた一代限りのものという考え方だった。それが、先天的な気質として代々遺伝されて行くのだから、これはもう不思議と言う他はない。

しかし、狼からイエイヌへの分岐が15000年前というのは、何億年という進化のスパンから考えて、にわかに信じ難い。そこで、その信憑性を少し調べてみた。狼からイエイヌへの分岐年代の根拠は、ミトコンドリアDNAの塩基配列の変化を分析した結果で、2002年にサイエンスに発表されたものであった。これは、ミトコンドリアDNAがもつ、ゆっくりとした塩基置換速度を分子時計として使ったもので、14000年前にドイツの遺跡から出土したイエイヌ化石の考古学上の年代測定ともほぼ一致する。

(狼の形相でボールを追うピート)

然しながら、イエイヌの起源以上に興味をそそられるのは、どのようにして狼をイエイヌの気質にまでもっていったかである。これは、選別という過程を経てきたからと言ってしまえばそうなのかも知れないが、未だ明確な答を誰も知り得ないでいる。また、なぜ気質までも遺伝情報として伝わっていくのか、甚だ疑問でもある。 ピートが我が家へ来なければ、このようなことは考えもしなかったろうに・・・。

(ゆったりと談笑するピート。 1万5千年前は、本当に狼だったのだろうか)

2010年10月4日月曜日

(7) ノーリードで遊ぶ

              (誰も居ない絶景のフィールドをノーリードで走り回るピート)

我が家はフィールドに出掛けた時、ピートをできる限りノーリードで遊ばせるようにしている。 だが、このような行動が許されるであろうか。

本来、ノーリードの散歩は条例で禁止されている。しかし、条例には例外事項が設けられており、解釈の仕方によってはノーリードも可能と思われる。例えば、滋賀県の動物保護および管理に関する条例の第六条では、「犬の飼い主は、飼い犬を常にけい留しておかなければならな い。ただし、次の各号のいずれかに該当する場合は、この限りでない。」とある。特に(2)項では、「人の生命、身体または財産に害を加えるおそれがない場所または方法で飼い犬を訓練し、 移動させ、または運動させる場合はこの限りではない。」となっている。

つまり、滋賀県では、 ひと気の無い山や野原ではノーリードが許されていると解釈し得る。しかし、例外事項の本来の趣旨は、興行犬、警察犬、探知犬等への配慮であると理解すべきなのかも知れない。

                        (フィールドで出会ったときはオンリードで)

犬先進国ドイツでの事情はどうであろうか。公園内は勿論ノーリードで自由に散歩ができると聞くが、ドイツのバイエルン地方では、野山でのノーリードを禁止している。しかし、レストランでの食事に同伴させることや、交通機関への乗車も可能であったりするから、一体何がどうなのか、どこでノーリードの線引きをしているのか、極東の小さな犬後進国に暮らしている状況下では、何とも判別し難い。結局のところ、飼い主責任ということかも知れない。

日本社会は、数十年前までノーリードの世界であった。それを条例で禁止せざるを得なくなった事情とは、一体どのようなことであったのだろうか。

2010年9月10日金曜日

(6)トレッキングに出掛けよう

たまにはドイツ人のように、犬とともにトレッキングに出掛けてみよう。それも整備された公園や遊歩道ではなく、バックカントリーと呼ばれる自然のままの野山へである。そして、 定点で遊ぶのではなく、トレイルという山の小道を犬と一緒に辿ってみよう。ピートは、このよう な自然のトレイルで、どのように反応し、どう行動するのだろうか。
  

(眼下に清里を望む峠道で被写体になるピート)

さて、自然のままのトレイルを辿る時、ピートは必ず私達より10mほど先を行く。そして、 あらゆる感覚を研ぎ澄ませ、自然の状況を敏感にキャッチしながら歩く。天候、地形、風、 音、匂いを嗅ぎ分け、安全を確かめながら、飼い主ではなく、自分の判断で先へ進もうとする。そこが、日常の散歩とは決定的に違う行動だ。ピートは、人間の拘束から解放され、思う存分自由を堪能し、自然を満喫しながら歩くのである。


                                  (トレッキングの先頭を務めるピート。残雪の北八ヶ岳トレイルにて)

ピートにとって、自身で行動を決定できることは、何よりも解放的で楽しいことと思えるが、 トレイルの分岐点では何故か立止まり、私達に判断を仰ぐ。これは、先頭を歩いていても、自分をリーダーだと思っていないのだと理解できる。歩く自由は得ても、どのように行動するかは、リーダーとしての私達にその判断を託しているのである。ピートは、自分で行動の裁量範囲を定めているからこそ、後はリーダーに従おうとするのであろう。差し詰め親の手を引張って、遊園地のゲートへ急ぐ子供の心境なのだろう。

 
                                                (小川に架かった丸木橋を慎重に渡るピート)


来た道を戻り始めると、ピートは人間の子供と何ら変わらぬ行動を取り始める。ノーリードにも関わらず、私達の後をテクテクと歩く。帰り道のピートは、つまらぬ顔をしているし、疲れも出ているようだ。これは、トレッキングの楽しみを終え、帰路に就くという行動を認識しているのだろう。ピートは、自然の中の随所で、人間と変わらぬ思考をしているように思えてならないのである。

(トレイルの終点より八ヶ岳を遠望する)